連塾2「浮世の赤坂草紙」レポ

炭男つんつんつつく日本かな

連塾2「浮世の赤坂草紙」より
二〇〇七年十二月二十二日(草月会館)

今回の連塾は冬至の日に開催されたこともあり、「境界」というキーワードが屹立していた。席亭のセイゴオさんは冒頭に、オシリスとイシスの神の物語をとりあげて、冬至はセトが死体のオシリスを切り刻んだ日であること、イシスはその肉片をかき集めたがそこに権力の象徴である男根だけが見つからなかったこと、それは冬至という太陽の力が最も減少するときに世界は交代することを象徴していることなどを説いた。そして「浮世」は「憂世」からきており、その無常からうまれる“はかなさ”にこそ「美」があることを前フリにして、多彩なゲストを入れ替わり立ち替わり招き入れた。

ゲストは浅葉克己、内田繁、清水博、しりあがり寿、西松布咏、植田いつ子、井上鑑。例のごとく妙味のきいた組み合わせ。どのゲストもそれぞれ分野は異なるが、共通して語っていたことは「おぼろげなる境界にこそ、日本という方法が潜んでいるのではないか」ということ。以下、各人の言葉を拾い上げてみる。

●デザインとは、形の問題ではなく、そうした人の心に向うものである。美は弱さのなかにあるものだ。弱さとは強さの対比ではなく、[弱さ]の存在自体がもつピアニッシモなイメージ。デザインは固定化しているものではない。流れる川のごとく、変化しつづけるものがデザインである。(内田繁)

●笑ってもらおうとして笑わせてるのではなく、笑われたくないのに笑われてしまう人々を描いている。…世の中は分かりやすいもの、誰の口にもあう料理をせざるを得なくなる。そこにはこぼれ落ちていくもののほうが多い。しかしそこに大事なものが潜んでいると思う。(しりあがり寿)。

●過去から未来へ進む時間と未来から過去へ向う時間が出会うところが境界である。ここに意味は生まれる。日本人は境界そのものを考えながら、モノゴトの論理を考えることができるのだ。世界は自分にどう向ってくるか。未来のほうから働きかけてくるものを待つほうが、紙一重で速い。ここに真理がある。これを武術に仕立てたのが柳生新影流だ(清水博)。

●新しい文字を表現することで新しい世界をつくる。…日本の境界は線で区切られたものでなく、色調がグラデーションになっている。そうした気配でコミュニケーションする能力に長けているのが日本人。…日本のグラフィックデザインは優れていると思う。それは「紙」を使っているからでしょうな(浅葉克己)。

●唄と語りの「ずらし」が味になる(西松布咏)。

●着る場を読み、その際の動きを想像し、気持ちまで考えて造るのがオートクチュールです(植田いつ子)。

●日本語でモノを考えている。言葉と音の共存在を意識して曲づくりをしている(井上鑑)。

●もともと日本には文字がなかった。声と文様で世界に爪痕をつけ、コード化してきた。今の日本は器に応じたものしかできなくなっている。もっと別の不分律が必要(松岡正剛)。
ーーー「生」では、ナマ・キ・セイ・ショウ。「生」という文字から、生活も、生一本も、イッセイ・ミヤケも、同時に漂ってきて、その全てを受け入れている。日本人は、この全てを保存できる何かを持ったのでしょう。一つを見て、孕んでいる多様を見るというメタプログラムが日本人には、ある。これが、Japan Mother Programといえるのではないか(松岡正剛/memo:Mr.furuno)

変化するもの、うつろいゆくものを愛し、遠くから届く声に耳をそばだてる。日本という方法は、縄文以来より染み込んだものという。それはもともとわたしたち日本人の心身に宿っているものだとしたら、もっと身体を構成する物質や言葉に身を委ねるべきか。

これまでセイゴオ的編集世界に魅かれ、連塾や編集学校に身を投じてきたが、それは日本人の本来の律動をとりもどすためなのかもしれない。利益追求、効率的、分かりやすさ、即席、賞味期限…。これらの追い立てを受けてしまいがちな日々に、どのように接していくべきか。時勢に流されてばかりでいいのか。日本という場所に生まれたこの必然を、生活においても職場においても、もっと自覚すべきなのだろう。

やはり境界は進んでまたぐべきである。

2007年12月25日

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