古代九州への呟き・その3
久しく間が開きましたが、今日は古代九州、古代日本を語る上での最重要必須文献、『魏志倭人伝』についてです。
『魏志倭人伝』は、正式には『魏志東夷伝倭人条』。『魏志』は曹操・孫権・劉備の三傑で有名な三国時代を統一した魏王朝の歴史を、後継王朝の晋(西晋)時代にまとめたものになります。そしてここに、古代日本最大の王権である邪馬台国と女王卑弥呼のことが書いてあります。
西暦239年、卑弥呼は魏の文帝(曹操の息子・曹丕のこと)に使いを送り、おそらくはその返使が魏から邪馬台国へやってきたと思われます。その際に、邪馬台国へ向かう道程が比較的詳しく記されています。これはほかの書物にはないもので、「邪馬台国はどこにあったか」という謎へ向かうときの基本文献になっているのです。
その路程とは、ごく簡単に記すと以下のようなものです。
1.帯方郡から船で7000余里、倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこ
く)に至る。
2.そこから海へ1000余里、対馬国(つまこく)に至る。
3.そこから南に海を1000余里渡ると一大国(一支国(いきこく)
)に至る。
4.そこから海を1000余里渡ると末盧国(まつろこく)に至る。
5.東南へ500里陸行、伊都国(いとこく)に到る。
6.東南に100里進むと奴国(ぬこく)に至る。
7.東へ100里行くと不弥国(ふみこく)に至る。
8.南へ水行20日で投馬国(とうまこく)に至る。
9.南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
さて、邪馬台国がどこにあるかという問題になると、皆さんご承知の通り、大きくは「畿内説」と「北九州説」に二分されます。いやいや沖縄こそ邪馬台国だ、いや岩手の八幡平が、いやいやかつて太平洋に浮かんでいたムー大陸こそ邪馬台国だ、と諸説は喧しいですが、有力な説としては畿内説と北九州説に集約されるといっていい。
問題は、魏志倭人伝にはここまで詳細に書いてあるのになぜ説が割れるのか、ということです。
そのもっとも大きな理由は、この路程を素直にたどると、邪馬台国の位置は九州の南方海上に抜けてしまうのです。そのままでは邪馬台国は、種子島近辺に海にあって消えた幻の国になってしまう。これでは都合が悪い。『魏志』は偽書とはいえないですから、邪馬台国が歴史的に実在したことは相当程度信頼できることです。であれば、どうすれば邪馬台国が実在可能か。
そこで、二つの方向が出てきます。
A.
当時の中国人は、日本列島を、九州を軸として東ではなく南へ延びる列島と誤解していた。このため、本来なら「東」と書くべきところ、「南」へと書いてしまった。したがって、魏志倭人伝の方角の記述は反時計回りに90度修正して読むべきである。
B.
この記述は直線的に読むべきではない。あるところからは放射的に、またあるところは「水行and陸行」ではなく「水行or陸行」と読むべきである。そうすれば九州内におさまる。いくら3世紀とはいえ、方角を間違えるはずがない。
この二つのスタンスが、説が割れる根本になっています。Aが基本的には畿内説に、Bが北九州説に収まるのはいうまでもないですね。
両方のスタンスとも、帯方郡(当時の魏が朝鮮半島に領有していた地域)から今の韓国、そして対馬から一支(今の壱岐島)を経て、末盧国が今の唐津付近(東松浦)、伊都国が今の筑前前原や糸島あたりであることには、地名の音の比定からあまり異論がない。
問題はそこから先で、伊都国以降、南ではなく東に距離を積み重ねていくと今の奈良県付近になる、というのが畿内説の主張です。この場合、できるだけ距離を東に持って行きたいですから、たとえば最後の邪馬台国へ至る所などはまず海上を10日行った上で、さらに歩いて一ヶ月、とand読みをします。
帯方郡-(7000余里)-狗邪韓国-(1000余里)-対馬国-
(1000余里)-一大国-(1000余里)-末盧国-(東南陸行500
里)-伊都国-(東南100里)-奴国-(東100里)-不弥国-
(南ではなく東へ水行20日)-投馬国-(南ではなく東に水行
10日さらに陸行1月)-邪馬台国
と、方角を修正しつつ直線的に読んでいくのです。こうなると、前回書いたように、邪馬台国は近畿から瀬戸内海沿岸を経て北部九州までを支配していた、かなり強大な、大和王権の前身である、と考えることができます。
一方、北九州説は、諸説ありますが伊都国あるいは不弥国あたりから放射状に読む。
帯方郡-(7000余里)-狗邪韓国-(1000余里)-対馬国-
(1000余里)-一大国-(1000余里)-末盧国-(東南陸行500
里)-伊都国-(東南100里)-奴国
-(東100里)-不弥国
-(南へ水行20日)-投馬国
-(南に水行10日または陸行1月)-邪馬台国
こう読んで、なおかつ距離の読みもor読みをしていけば、邪馬台国は北部九州に入ります。この場合は、邪馬台国は北部九州の地方政権で、それが150年の後に大和王権に変質したか、ないしは新たに立ち上がった大和王権に征服されたか、のどちらかです。
ここから先は、根本的な見方の違いになる。文献資料ではどうしようもない。考古的な資料は北部九州のほうがたくさん出土していますが、しかし古墳の形状からみると、畿内には日本独自の前方後円墳があるけれど九州にはあまりないことから日本王権のベースは畿内にあった、と論じることも有力。銅鏡が日本製か中国製か、や古墳の形状などからの検証もありますが、決定打にはなっていません。
邪馬台国の位置をめぐっては、もともと、畿内説が優勢でした。なぜなら、『日本書紀』を読めば、応神天皇の国母にして、三韓征伐の主役である神功皇后が卑弥呼だと読める。すなわち、卑弥呼は大和朝廷の、実質女王であると読めるわけです。新井白石などは忠実にこの解釈に従っている。
が、これはずるい。『日本書紀』が書かれたのは、『魏志』が書かれてから何百年もあとのことです。つまり日本書紀のライターは、『魏志倭人伝』を意識して日本書紀を書いているわけです。女王卑弥呼が神功皇后であり、東アジアに正統な支配権を打ち立てた、と中国の正史にリンクさせることでオーソライズをはかっている。もともと中国の史書にある“漢意”に批判的な本居宣長は、「卑弥呼とは神功皇后の名をかたった九州地方王権の女王(熊襲の女酋長)に過ぎない」と断じています。
明治に入って、日本は近代国家になりました。近代とは、ナポレオンもシュリーマンもそうであったように、その面影を古代ロマンに投影した時代ですから、日本においては邪馬台国がその対象になっていきます。邪馬台国の候補地のひとつ、筑後山門郡柳川生まれの北原白秋は、
山門(やまと)は我が産土(うぶすな)
うるはしの邪馬台(やまと)の国
という詩を詠んでいる。このあたりから、邪馬台国論争は日本の源流を巡る論争へと変わっていくのです。北部九州には、博多、小倉、宇佐、甘木、柳川、熊本、島原といった邪馬台国候補地がひしめくことになりました。
以上のことは基礎知識としては重要ですが、しかし、あまり邪馬台国の所在地に拘泥すべきではないでしょう。
次回は、むしろ重要なこととして、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国人の風俗にふれます。そこは華北中華政権とはかなりかけ離れた「海の民」の様相が見て取れる。校長が千夜千冊『九州水軍国家の興亡』で書いておられたように、東南アジアから続く海の民の国ではなかったか、ということです。そう考えてくれば、陸行一月の距離を、実は遠回りであるようで海岸伝いに十日で駆け抜けつつ、大陸との往来をはかってこの列島に文化を持ち込んだ「海の民」たちの姿が見えてくるかもしれません。
次回はそうしたことを、邪馬台国と大和王権の関係に記紀神話の光を当てながら考えるの巻、の予定です。
- by 若衆snobbist
- at 12:14
2007年08月03日
