古代九州への呟き・その1
平若衆・Snobbistマサトシです。
古代九州がテーマになっていますが、
それについて、ちょっと長めの呟きを。
謎の古代九州といわれますが、なぜ謎なのか?
それは、記録がないから、なんですね。
九州だけではない、日本についての記録がほとんどない。
ご承知のとおり、日本最古の歴史書は『古事記』と『日本書紀』ですが、どちらも書かれたのは8世紀のことで、それもかなり意図的に創作して書いていたりするものですから、紀元5~6世紀までの古代のことはなかなかわからないのです。
とはいえ、大陸に近かった古代九州の動向が、古代日本の歴史に大きな影響を与えたことは確実です。
∥古代北九州の日本。
∥そこに何もかもがあった。
と校長は書いておられましたが、その魅力があればこそ、謎は謎として光彩を放ちます。
で、今回はまず、古代九州の謎を位置づける前提として、古代日本の謎の基本的な構図を我流にご説明します。
日本人が日本のことを記録してない以上、頼りになるのは、中国の歴史書なのですが、これも古代日本(=倭)については数えるほどしか記録がありません。以下がすべて、といってもいいほどです。
0057年 漢(後漢)に、倭の奴国王帥升が奴隷を献上し、
朝貢する。光武帝、倭国に金印を遣わす。
(『後漢書』東夷伝)
2世紀 後漢の桓帝・霊帝の治世(132年~189年ごろ)、
倭国に大乱が起きる。(『後漢書』東夷伝)
内乱を収めるため、倭人たちは卑弥呼を共立し
女王とした。
0239年 邪馬台国女王卑弥呼、魏に朝貢。銅鏡100枚と
親魏倭王の金印を与えられる。
0243年 女王卑弥呼、再度魏に朝貢。
0248年? 女王卑弥呼、死去。内乱状態となり、1000人
以上が死ぬ。卑弥呼の親族で13歳の壱与を女王
に立て、内乱をおさめる。(以上『魏志』倭人伝)
0266年 倭国女王(壱与と考えられる)が晋に朝貢する。
(『晋書』起居註)
------------------150年間の空白----------------------
0413年 倭王讃、東晋に貢物を献じる。(これ以後、「倭の
五王」が中国・南朝の皇帝に次々と遣使)
(『晋書』安帝記)
たったこれだけしかないために、さまざまな解釈が生まれてしまうのですが、現在の主流において「事実」と認定されていることを説明していきます。
1.
紀元前後、九州北部にある程度の力を持ったクニが成立し、その王が中国に使者を派遣できるまでになった。このとき、光武帝から奴国王が授かったのが、江戸時代になって志賀島で偶然発見された金印とされている。
2.
その後倭国は戦乱になったが、邪馬台国の女王卑弥呼が立ってこれを治めた。邪馬台国は周囲のクニグニを服属させる強国であったが、これが北部九州にあったのか、畿内にあったのかは確定できない。
3.
卑弥呼死後、壱与までは邪馬台国は存続した。
4.
それから150年後、倭王が中国に次々と朝貢した。この「倭の五王」は、天皇でいうと履中、反正、允恭、安康、雄略の5人の天皇とされており、つまり彼らは「ヤマト王権」の君主である。
したがって、この時期までには、後の大和朝廷、天皇家につながる勢力が、日本のかなりの部分を支配していたということになる。
で、古代日本史と、九州に関わる謎は、
○邪馬台国がどこにあったか、それも含めて、北部九州はその時期どうなっていたのか。
○上の3.から4.に行く間に横たわる、空白の150年間に何があったのか。
ここにさまざまな珍説異説真面目説、さまざまな編集成果がはたらいているのですが、ごく簡潔にまとめると以下の三択問題として表すことができます。
問:
3世紀末に、北部九州か畿内かのどちらかに「邪馬台国」があったが、150年後には「邪馬台国」はなく、「ヤマト王権」が畿内に成立していた。この150年に何が起きたか、次の3つのうちから選べ。
1.
もともと畿内にあり、北部九州までを支配していた「邪馬台国」が、そのまま発展的に成長し、強い勢力を持った「ヤマト王権」となった。
2.
畿内に現れた新興勢力が、北部九州に存在していた「邪馬台国」を征服し、西日本に広がる「ヤマト王権」をつくった。
3.
北部九州に存在した「邪馬台国」が何らかの理由で東方へ集団移動し、畿内に新しいクニをつくり、それが発展して「ヤマト王権」となった。
だいたい、以上の三択のバリエーションの中で、古代日本談義は進んでいるといっていい。
そしてそれぞれに根拠があるのです。墳墓の形式、銅鏡のかたち、銅鏡の成分、ヤマトと邪馬台の音韻の問題、地名の研究、日本書紀・古事記の記事内容との比定・・・などなど。ただ、決定的な証拠や理屈は見つかっていません。
しかしいずれにしても、古代日本の成立に、古代九州が大きく関わっている。このことだけは、間違いがありません。
特に、3.に違和感を感じられる方が多いかもしれませんが、3.の根拠としては、初代天皇とされる神武天皇が、日向高千穂宮から、軍勢を率いて東へ登り、大和畝傍山の麓で天皇として即位する、という
古事記や日本書紀の筋書きが、現実の歴史をなぞっているのではないか、という主張なのです。
細かいことはおいおいご紹介していきたいと思いますが、いずれにしても、「倭の五王」の時代までに、
北部九州と畿内(そしてそれを結ぶ瀬戸内海沿岸)を活動領域とする、国家なりネットワークなりが成立していたことは確実です。(東日本や東北、出雲や南九州はまだ別勢力である可能性が高い)
まずは古代九州を、この大きな文脈の中に位置づけていただくと、話が見えやすくなるかと思います。
- by 若衆snobbist
- at 01:15
2007年03月23日

comments
いやー、「離」の最中なのにこの余裕!さすがマサトシさんですね。ふむふむ、このあたりがマトになるわけですね。
ありがとございます!